この日の午後はバスがやけに混んでいて、座席が空いてなかったので、私はベビーカーに乗ったポーと運転席のすぐ後ろあたりに陣取った。乗客と対面しているポーは、そばの黒人のおじさんにあやしてもらってご機嫌だった。
自分たちが降りるバス停の二つ手前くらいで、中年の男女が乗ってきた。知り合い同士なのか、お喋りしながらバスに乗り込む。
男性の方は足早に最後尾の座席へ。女性は重そうなカバンを抱えて、その後を着いていく。
"Ma'am!"
運転手が大きな声で叫んだ。ちなみにma'amとはお母さんのことじゃなくて女性を呼ぶときの敬称。
その女性がバスの真ん中あたりで「私?」といったキョトンとした表情で振り返った。
"Yes, I am talking to you!"
そう言うと運転手は人差し指でこちらへ戻って来いと鏡越しに合図した。
バスの中に緊張が走った。シーンと静まりかえる中、女性は重い足取りで前方へ戻ってきた。女性の顔をジロジロ見ている乗客もいる。
バスの乗客みんなが同じことを考えていただろう。この女性は恐らく運賃をごまかそうとしたのだ。
運転手によっては、バスのチケットの日時を注意深くチェックしない人もいる。ただ、この運転手はそうじゃなかった。
女性は分厚いカバンの中から小銭を集めている様子だった。でも時間がかかっている。運賃は2ドル50セント。日本円で約250円。この女性が持ち合わせてないのなら、バスを降ろされてしまう。私は自分の財布からすぐにお金を出すべきかどうか考えるうちに、胸がドキドキしてきた。
ふと座席の方を見たら、さっきの黒人のおじさんがカバンの中から小銭を集めている。それから若い白人のお兄さんも同様に小銭をポケットから出そうとしていた。その女性を助けるためだ。
やっぱりそれでいいんだ。私も財布を出そうとした瞬間に、その女性が一緒に乗ってきた知り合いらしき男性に向かって叫んだ。
"Hey, do you have a quarter?!"
quarter(クオーター)は25セントコインのこと。あと25セント足りないようだ。私はちょうどジーンズのポケットにクオーターが一枚入っているのに気が付いて、それをパッと差し出した。
女性:"Are you sure?"
私:"Of course."
女性がバスの運賃箱にそれを入れると、やっとバスの運転手はまた運転を再開した。女性が私の横を通るときに
"Thank you so much."
と言ってくれた。笑顔のその目は少し潤んで、悲しそうに見えた。
確かにこの女性はルールを破ろうとした。でも誰が好き好んで、たかが2ドル50セントを節約するためにわざわざみんなの晒し者になるようなリスクを犯すだろうか。きっと生活が困窮しているのだろう。
この街には大金持ちもホームレスもいる。リムジンで高級レストランに横付けする人もいれば、バス賃さえままならない人もいる。この街の現実を目の当たりにした出来事だった。
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